「愛のないものは消え、愛あるものが具現化する」ーそれは今の看護にも当てはまるのではないでしょうか?時代の変化と共に、効率・制度・マニュアルで動くようになることへの医療現場の揺らぎを感じます。確かに現場は、病気の蔓延、高齢者の増加、人手不足、資金不足等の問題が山積しており、看護においては簡素化するしかなく、最低限のケアになっていくことは避けられないと思います。
それでもなお、人と人が”寄り添う看護”として残すべきものは何でしょう?
1. 「愛のないもの」とは何か?看護現場より
たとえば終末期で、身の置きどころのないようなしんどさを感じている人がいるとします。あなたは時間を割いてでも、身体をさすったり手足を動かしてあげたいと思いますか?それとも終末期なのだから仕方がないと割り切って、業務の効率化を優先しますか?私はどちらも正解でもなく間違いでもないと思います。目の前に居る人を想い少しでも…と想う人は、深い哀れみと慈しみの心を持つ慈悲の人です。”手当て”という言葉が示すように、手でケアをする、まさに看護の成せる技だと思います。
ですがもう少し先を見ると、そうした行為をすべての人に行うことは不可能になっていきます。病気の蔓延、高齢者の増加、人手不足等の問題により現場のIOT化が進み、看護の簡素化が加速していく状況においては(~した方がいい)(~しなければ)という固定観念を切り離さねばなりません。でなければ自己犠牲的な労働になっていくのです。これから日本に訪れる『多死社会』は、私たちに”死に対する固定観念の書き換え”を要求ことでしょう。死は怖いもの、死は悲しく辛いもの、死は悪という感情論を見直し、『人間も自然の一部』として広い視野で”生命の循環”を理解し始めます。多死社会を経験することで、よりフラットに死を受け入れる未来が待ち構えているのだろうと思います。
時代の移行期である今、そして多様性が進む現代において、一つの答えを正しいと信じることは妄信と言えます。人それぞれの過去の経験によって、今の価値観が違っているのは当然のことだと受け止める必要があります。もし間違いがあるとすれば、自分が愛だと妄信していることを他者に強要することではないでしょうか。今の医療現場は、命に関わるからこそですが、『正しさの剣』を振りかざす人が大勢います。それは決して愛ではないことに気づいておきたいですね。
2.点数化できない看護
就職して3ヶ月目に”ここには看護がない”と、某市民病院の総看護師長まで直談判した経験があります。フリーランスナースの会に参加した数百人の看護師の中には、同じ想いを抱えながら働いて来たという人が多数いました。あなたはいかがでしょうか?病院ではとくに医師の補助業務が優先されて看護が後回しになっていくのを感じますが、それは看護が数値化できるものではない=保険点数で表されるものではないからではないでしょうか。
本来、医師と看護師の立ち位置は別だと思うのですが、医師の補助業務が一日の大半を占めます。中には、看護師は医師の使い走りだと思っている患者もいます。ですが現場は看護師がいなければ回らないのも確かです。それは医師が決めた治療方針に対して患者が治療意欲を持てるよう、看護師が常に”働きかけ”をしているからです。説明の仕方、タイミング、話し方、言葉選びを考え、治療意欲を促進し、時に謝り、その『関係性』を常に尊重しています。つまり看護は目に見えないものであり、診療報酬を得るものでもない。それは”見返りのない愛=慈悲の心”だと思うのですが、あなたはどう思いますか?
3.「看護の本質」とは何か?
看護師が行なう業務は、”医師の指示に従う”という定めが保健師助産師看護師法にあり、それが主になっているような気がします。ですが看護師に重要な働きは、前述したように『関わり』にあります。医師を治療する側、患者を治療を受ける側として対極に見れば、看護師はその中間に立つべき役割りです。ですが今の現場は医師側に看護師が位置しているため、2:1の関係性になっていることが、患者や家族を弱い立場で意見しづらくしているのではないでしょうか。本来看護師は医師と患者の中間に立ち、両者の意見を尊重しつつ、両者の目的を満たせるよう関係性を取り持つ『中庸』の立ち位置であるべきなのです。
医師と患者の中庸に位置するということは、看護師は常に第三者の立場です。それは患者と家族に置き換えても同じで、看護師はやはり第三者の立場です。第三者の立場というのは、認知科学でいう『メタ認知』を必要とし、仏教的には『観照者(かんしょうしゃ)』の視点を持ちます。観照者は主観を排し、物事の本質を考察する深い精神性を意味します。それは居るような居ないような『空(くう)』の存在でありながら、強い影響力を持ちます。つまり看護師の”関わり方”によって、医師も患者も良くも悪くもなります。それが看護師本来の性質です。
このように看護の本質とは”関わり”であると言えます。日常生活が維持できなくなり社会から隔離された患者に、どのような看護師がどう関わるかによって、患者の予後は良くも悪くもなります。看護師は何かをする人ではなく、さまざまな医療行為を通して”より良い関わり”を行い、病気のみならず物事に対する考え方や取り組み方など”姿勢を見せる”というのが、看護の本質です。そうして患者は日常生活の中で(そういえばあの看護師さんはこう言ってたな)(あの看護師さんはこういうふうに考えてたな)と思い出し、自らを改めていくことが看護における愛の力なのです。
4.看護は「陰」の作用
さて、あなたは「看護とは何か」を言葉にできていますか?それってとても難しいと思いませんか。答えを持っている看護師は少ないと思います。また、その答えは看護師によってさまざまだと思います。それは、看護は『陰』の作用だからです。ここまでの内容でわかるように、看護は目に見えるものでなく数値化できるものでもありません。関係性を扱い、第三者の立ち位置を持ちます。医師の補助業務として医療行為を行っているときは意識しやすい『陽』の働きですが、看護は通常気づかない”縁の下の力持ち”なのです。
そして『愛』は陰の作用です。看護と同じように目に見えるものでなく、言葉にし難く、関係性によって良くも悪くもなります。数霊(かずたま)では奇数を陽とし、偶数を陰としますが、愛は『6』で表され、陰の作用を意味します。看護はそもそも愛なんですね。よって仕事の大半を医師の補助業務が占めてしまっていることや、権威や利権に偏っている現状は、看護師にとって強いストレスになります。看護は好きなのに離職者が多い…という現状がそれを表しているのではないでしょうか。私たちは陽(3:物質)+愛(6:愛)のバランスを図り、調和や全体性を意味する『9』に向かうべきなのです。
5.看護は「最上位概念」
私自身、(看護師は何のためにいるのだろう?)(私の役割はなに?)と考えていたことがありました。治療は医師が行う、食事は栄養士、薬は薬剤師、検査は検査技師、運動は理学療法士、生活支援や身体ケアは介護士…と各専門職がいるなら、私はいったい何のためにいるのだろうか?と感じていました。ですがあるとき気づいたのです。看護師は各専門職の知識を浅く広く網羅し、どの医療職もカバーできる技量を持ち、すべての医療職をつなぐ役割りをしていることに。看護とは、患者や家族に寄り添いつつ、他の医療職すべてを俯瞰(ふかん)する観照者としての概念を意味するのです。
また、看護師は命の誕生から死まで関わる立場にあります。そしていかなる職業人や役職の人にも同等に関わります。ということは医療職のみならず、あらゆる職業に寄り添えるような概念が求められます。そう、看護は常に包括した視点を持ち、関係性をマネジメントするジェネラリスト(複数の領域にわたる幅広い知識や経験を持ち、横断的に活躍できる人)として能力を発揮することが最適なのでしょう。よって、理想の未来を語る看護師の『愛』がとてつもなく大きいのは仕方のないことかもしれません。
6.究極の看護「看取り」
人生の幕を下ろす瞬間に立ち会える職業は、そう多くはありません。看取りの「看」が看護師の「看」であるように、まさに看取りは看護師の仕事ではないかと思います。治療を終え、生活支援も終えるのが看取りですが、この時期に私たちが出来ることはあまりありません。声なき訴えに気づき、言葉を越えたケアが求められる、まさに精神性の関わりでしょう。命の誕生から現段階まで、すべてを包括してその存在をまるごと肯定し、次の人生へと魂を送り出す支援をさせていただくのが看取りです。
では、”言葉を越えたケア”とは何でしょう?看護師にできることは何でしょうか。私たちは無意識的に共振共鳴しており、意識の高い存在から、低い存在へと影響をもたらします。しかたがって、今まさに人間を終えようとしている人のぞばに強い自我を持つ看護師がいると相手は死に抗うことになり得るため、看護師は自我を離れて観照し『空(くう)』を認識していることが望まれます。つまり私たちは他のどんな職業よりも、崇高な精神性を取り戻すべき立場でしょう。
「死」は本人だけでなく、共にいる家族も本人を通して体験します。「看護の本質」で記述したように、看護師は患者と家族の関係性を取り持つ第三者としての存在です。看取りに入る前の段階でグリーフ(大切な人を失ったことによる深い悲しみや喪失感)を見越した、効果的な”看取り対話”を促すことができます。そして最期は家族の声を傾聴し、共感して、可能なかぎり後悔のない関わりを促す家族看護が望まれます。科学や技術だけでは説明できない看護の力を発揮すべき時なのです。
7.愛あるものだけが具現化する
今、私たちは時代改革の中にいて、古い価値観は崩壊しつつあります。医療は権威と利権に支配される側面があり、そこで働く看護師自身も報酬こそが自分の幸せである、自分の価値だと思わされ、転々としている人もいます。今後病院や施設は統合が加速して大企業の運営となり、医師も看護師も介護士もまるで一つのコマとして、AIの指示にしたがい淡々と働くことになるでしょう。1.「愛のないもの」に記述の通りです。
ですがこれからの時代は、看護師だからといって必ずしも雇われるしかないわけではありません。国の保険制度で守られた箱を出て自立するのはそう簡単ではありませんが、真の心の声にしたがって新たな活動をし始めている看護師が少なくありません。そして今までは洗脳されたエゴによる偽の力で実現することが可能でしたが、高次元精神性時代への移行が進むにつれ、宇宙の仕組みに同調する本質の想いしか具現化できないようになりつつあります。
また「愛でないもの=誰でも出来ること」(効率化重視)はAIに取って代わっていくでしょう。その中で人類はどのようにして存在意義を感じるのでしょうか。「AIには出来ないこと=愛あるもの」(創造性)が唯一の存在意義になっていくのではないでしょうか。ただ、AIの指示にしたがい淡々と作業をこなす「愛のない」働き方も、「愛のある」優位な働き方も、どちらも自我を脱ぎ捨て、感情を切り離さねばならないことは同様で、いずれもいつか『AI=愛』に着地するだろうと推測します。間違っているのは、自分が思う愛の形を他者に強要することです。
8.看護師自身が「愛」を養うために
愛に至る前段階にあるのは「許し」「許容」です。職場ではあらゆる場面で、看護師が”正義の剣(つるぎ)”を振りかざし、戦い続け、お互いに傷だらけになっているのを感じませんか?この記事をここまで読み進めてくださったあなたは、そうではないかもしれません。ですがそういう人間関係に疲弊し、そこから出たい、離れたいと思っているのではないでしょうか?人は誰しも過去の経験による記憶に基づいてあらゆることを判断しているのであり、誰も自分が間違っていると思いながら発言したり行動したりはしないものです。あなた自身がそうであるように。
愛を養うためにまずできることは、言葉を慎むこと、あるいは黙ることです。ほとんどの人は沈黙を恐れるがゆえ言葉を発しますが、沈黙を恐れない人になるには、自分の内面と向き合う孤独の時間を持つことでしょう。正義の剣で戦ってしまうのは、自分自身の過去に原因があります。それは自分自身に責任があるわけではありませんが、自分自身と対峙することでしか私たちは目覚めることができないのです。そしてそんな弱い自分を認め、受け入れることこそが、相手を許し許容し得る人間へと成長させてくれるのです。
終わりに
愛を周囲に求めなくとも、愛は自分自身の中にあります。看護という仕事を通して見返りを求めない『慈悲の愛』に目覚め、その愛を社会に広めていくために、私たちの魂は今この時代を選んで生まれ、何万とある職業の中から看護師を選んでいるのだと信じています。あなたが今、実践している看護に”愛”はありますか?

  
     
     